同人歌誌『ひとみ』以前の井口蕉花の活動として大正8年7月25日付『名古屋新聞』に井口蕉下客の筆名による詩「夜の丘」、同年10月19日付の同紙に詩「眞夏の怖れ」の掲載がある。他には翌年6月発行の文藝誌『文章世界』第15巻第6号(加能作次郎による編集兼発行)に福太郎の筆名にて詩「病める侏儒」を投稿、西條八十によって選考される。西條によるその評註を全文引く《いゝ詩だ。臝弱な靑年が日夜夢みる或る旺んな力が、變態色慾的な幻を通じてよく描き出されてゐる。大膽な筆致と纖鋭な神徑とがかなりに調和されてゐる。最後の三行が殊に心を惹く》。卓識な寸評であり、誌友以外による唯一の蕉花評として貴重である。ちなみに生前の棚夏針手を評したのも西條だけであった。渡仏留学時にポール・ヴァレリーとも交遊のあった西條八十、その先見性にはおそれ入る。
 

文藝誌『文章世界』
第15巻第6号

 
 

 この文藝誌『文章世界』は明治39年3月に当時最大の出版社である博文館より創刊、地方の文学青年らの投稿を重視した商業文芸誌としても評価を得る。投稿者には後々活躍する若き日の室生犀星や内田百閒、生田春月や久保田万太郎、谷崎精二や秦豊吉(丸木砂土)がおり、上林暁や片岡鉄兵、今東光や横光利一、高鍬侊佑や尾崎翠等々、数え上げれば枚挙にいとまがない。蕉花も福太郎名義の詩が選考されたのは既に述べたが、青年期の蕉花が本間五丈原という筆名で投稿していたとの証言が残されている。だが、結論から申し上げると蕉花は五丈原ではない。
 確かに『文章世界』には本間五丈原なる詩人の投稿があり、明治41年5月発行の第3巻第7号に短歌が初選考、以降毎号のごとく詩や散文、短歌や俳句等を投稿し、大正4年7月発行の第10巻第8号まで続く。蕉花を本間だと証言する誌友に牧野勝彦(吉晴)や春山行夫、金子光晴や斎藤光次郎、亀山巌らがおり、昭和10年2月発行の詩誌『詩人時代』掲載の坂野草史による「井口蕉花の追憶」にも《詩篇の幾多に偶々「本間五城原」と署名せられてあつたのが果して故人(蕉花)のペンネームなのか、それとも全くの別人なのか、全然不明、殊に當時二三の詩誌に、「本間五城原」のサインによつて殆んど故人と同傾向の作品が載せられてあるのを見るに及んで、友達は全くその眞僞の程を計り兼ね、遂には大勢一致して井口即本間といふ事に意見が傾いてゐた》とある。又、昭和43年10月刊行『名古屋地方詩史』でも著者の杉浦盛雄は蕉花を《彼は『文章世界』の投書家で〔本間五丈原〕の筆名を用い、十二秀才といわれるほど有名であった》と信じて疑わない。しかし、昭和51年4月発行の『名古屋近代文学史研究』第28号掲載の木全圓壽による「本間五丈原伝説」、並びに同誌掲載の福田万里子と木下信三による「井口蕉花の周辺」、これらの論及により井口即本間説は否認された。
 

『文章世界』第9巻第7号「文叢」より
左端が本間五丈原

 
 

 本間五丈原について少し述べておく。明治22年12月29日に新潟の佐渡島に本間五丈原は出生、本名を徳太郎。筆名の五丈原とは土井晩翠詩集『天地有情』収録の詩「星落秋風五丈原」より命名。五丈原は『文章世界』投稿者の常連で三木露風らによって頻繁に選考される。大正4年7月発行の同誌第10巻第8号では《十二秀才》に選抜、その12人には新興芸術派の岡田三郎もいた。五丈原は佐渡の文藝同人誌『海草』や後続誌『微光』、『純藝術』等に参画、文藝投稿誌『秀才文壇』にも投書する。大正8年創刊の文藝誌『芽生』に掲載あり、愛知県南設楽郡作手村(現在の新城市)の地方同人誌ゆえ、同県在住の蕉花を疑うも五丈原の詩で間違いなさそうである。昭和16年3月23日、本間五丈原は逝去、享年53歳であった。彼に生前の著書はなく、昭和34年9月に佐渡の有志らにより遺稿詩集『本間五丈原詩集』刊行、露風が序を寄せる。
 

以上、『井口蕉花全集』の「編者解題」より抜粋
 
 

2021.11.17 Ryo Iketani






 

カテゴリー: 井口蕉花詩論