過去に棚夏針手を論じたのは、詩人であり評論家の鶴岡善久氏だけであるのは前にも触れた。その鶴岡氏の詩論「シュルレアリスム前史の可能性」から少し引く。まず《サンボリックなものが形を解体しながらシュルレアリスティックなイメージに変形していくところに棚夏針手のオリジナルな先駆者的な価値づけが生じてくる》と、更に《サンボリスム的な抒情の領域から手はひとりでに動いて、シュルレアリスムの領域へ移行していたといってよかろう。棚夏針手の詩には明らかにオートマティスムの技法がみられる。しかも棚夏針手の場合、このオートマティスムは彼のきわめて独自的な手法として存在した》と。割れようなき見解であろう。このオートマティスム(仏語)とは心理学用語の一種で筋肉性自動作用との意だが、ここでは詩作上の実験的筆記法として用いている。このオートマティスム(以下、自動記述)がいかなる詩法か。世界百科事典によれば《道徳上、美学上のあらゆる先入主を捨て、しかもあらかじめ何を書くかをいっさい考えずに、できるだけ速く、自動的に、文章を書き進めてゆく行為》である。鶴岡氏曰く《棚夏針手の詩にあっては無意識が意識よりも上廻り、非現実が現実にとってかわり、不合理が合理性をしのいでいる》。

 棚夏針手の詩法が自動記述的なのは確かである。しかもその詩法がフランスから日本へともたらされる以前に象徴主義からシュルレアリスムへと昇華したその独自性をして異端的詩風たらしめたと言えよう。だが、その独創性ゆえに確かな詩法なき霊感的な詩の末路たるや羽化した蝉のごとく短命に啼く。詩法の形式不在、それは詩作の安定性及び量産性の欠如を意味し、持続性の喪失をも意味する。しかし、だからこそ棚夏の詩は純粋であり孤高である。火の指環のごとき御業なのであろう。
 

『薔薇の幽霊』 by Kenju Hino

 春山行夫は詩誌『詩と詩論』創刊号の後記でこう唱える《いまこゝに舊詩壇の無詩學的獨裁を打破して、今日のポエジーを正當に示し得る機會を得たことは、何んといふ喜びであらう》と。主知的形式主義によってモダニズム詩へと邁進する春山と、無詩学的な棚夏針手とが袂を分かつのも必至、棚夏の退陣事由もあながちそんなところであろう。あるいは関東大震災を被災した棚夏がその惨劇を目の当たりにし、従前の夢や狂気や無意識の探求ではなく、現実であり平生の復興と再生を、その生生世世を悲願したのやも知れぬ。そんな彼が震災後に舶来するシュルレアリスムを有難がるわけもなく、ゆえに棚夏針手は左傾して万人のためのコミュニズムへと接近し、アルチュール・ランボーのごとく唄わざる詩人の幽霊として、開かれざる薔薇の畢生を全うしたのではあるまいか。
 

以上、『棚夏針手全集 下巻』の「編者解題」より抜粋
 
 

2021.8.31 Ryo Iketani






カテゴリー: 棚夏針手詩論