棚夏針手は明治35年(生年月日不明)、東京市小石川区大塚仲町(現在の文京区大塚)の「近茂質店」に出生、本名を田中真寿という。
 彼は旧制順天中学校を中退、桜橋の質屋「高治」に勤め、その同業のよしみから京橋の質屋で徒弟していた竹内隆二や添田英二らと詩的交流を持つようになる。竹内は当時をこう述懐する《年齢も16、17歳のころ、それは大正も初期、私(竹内)のほか添田英二・棚夏針手・山本周五郎・同じ仕事で知り合った偶然の出合いが、だれから始めるともなく書きはじめたこの文学への憧れと執念が、4人の生涯を変えてしまった。やがて近藤東と識り合う(中略)私たちはフランスの詩人ボオドレエルやマラルメ、ヴェルレエヌの詩に激しい驚きを感じ、難解な詩の解読に熱中した。やがて大河内信敬(画家)たちと詩と版画の雑誌『君と僕』を出す》と。
 棚夏より2歳年弱の近藤東は彼らとの邂逅について《竹内との交友の動機になつたのが神戸の福原清氏の詩集『ボヘミア歌』であつた》と記しており、大正11年8月刊行の高鍬侊佑詩集『月に開く窓』を機に竹内を介して添田と棚夏を紹介されたと振り返る。近藤の生家は東京市京橋区南鍛冶町(現在の中央区南部)にあり、竹内が徒弟していた質屋にほど近く、棚夏が務める桜橋の質屋からも遠くない。
 棚夏より2歳年長の竹内は神奈川県藤沢町から15歳で上京、昭和42年1月発行の季刊誌『黒』第14号に掲載された杉浦盛雄による試論「詩誌『青騎士』と〈日本超現実主義詩〉について」で《棚夏針手(名古屋出身)、竹内隆二(同上)》とあるが、これらは誤りである。棚夏は竹内や添田、近藤らと共に同人詩誌『君と僕』を軸にして大正10年代の高踏派な詩誌『瑯玕』や『靑騎士』等に参画する。
 

文藝誌『明星』第1巻第3号
 
 

 大正11年、棚夏針手は与謝野鉄幹主宰の文藝誌『明星』第1巻第3号の詩選「星雲の舞(新詩社詠草)」に推薦を受けて「地震の夜」が掲載、翌年には北原白秋と山田耕作が主宰する藝術誌『詩と音樂』第2巻第1号の新進11人集に選出されて「不毛」が掲載される。後年、竹内はこう追懐している《『詩と音楽』が、詩壇への登竜門として新人推薦をすると発表した。全国から集まった数千の詩の中から、15、16人推薦されたのだが、私(竹内)と棚夏針手、近藤東、添田英二の四人が期せずして推薦された。皆20歳を出たばかり》と。その選ばれた新進11人集には春山行夫や竹中郁、川上澄生(版画家)や久野豊彦らが名を連ねており、後々活躍する錚々たる顔ぶれを見れば編集人の北原らによる選定の的確さが伺えよう。
 棚夏針手への評価は、その詩活全盛期でさえ北原や堀口大學らが雑誌編集者として詩数篇を選考した程度ではなかろうか。当時の詩誌を読みあされど棚夏への言及はまったく見当たらず、ただ唯一、大正11年五月発行の詩誌『白孔雀』第Ⅲ号「所感」でその編集者である西條八十が《推薦の棚夏針手君は古くから熱心に詩作に從事してゐる人である。君の詩の特色はその用語に關する特異な感覺に在る》とだけ触れている。

 昭和になってからはほとんど活動が見受けられず、昭和2年に北原白秋編集の詩誌『近代風景』第2巻第5号と同巻第11号へ寄稿、昭和4年に堀口大學編集の詩誌『オルフェオン』第3号へ田中新珠の筆名(堀口の助言から、本名の真寿に戻る謂もあったらしい)にて寄稿があるのみ。
 時を隔てること昭和25年、棚夏は6月6日制作の詩「青あらしのなかから」の原稿を近藤東へ宛てており、その書簡に「千葉県(四街道局区内)印旛郡旭村三才二五四田中真寿」とあるようだが、以後消息不明。昭和38年5月発行の詩誌『想像』第20号掲載の鶴岡善久氏による「日本超現実主義詩派批判・試論Ⅲ-シユルレアリスム前史の問題」で《近藤東氏の私信によれば戦後棚夏はいささか左傾し、青年文化運動にたずさわり、現在常磐線の牛久かどこかに健在のはず》とあるも定かではなく、没年月日も不詳。
 尚、鶴岡氏のこの試論によってようやく棚夏針手が論及され、更に昭和45年3月発行の詩誌『ユリイカ』第2巻第3号掲載の試論「埋もれた異端」と併せて、のちに詩論「シュルレアリスム前史の可能性」へと改訂。これがまとまった唯一の棚夏針手論であるため、氏の功績は大きい。
 

以上、『棚夏針手全集 上巻』の「編者解題」より抜粋
 
 

2021.5.31 Ryo Iketani






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