ポール・エリュアール(Paul Éluard)より五歳年弱の詩人ロベール・デスノス(Robert Desnos)は詩画集『不死者の不幸(Les Malheurs Des Immortels)』を評する際に《エリュアールには自殺願望があるのではなかろうか》と指摘しており、この自動記述の若き達人による洞察は的確ともいえよう。血気溢れるダダイストらのなかにおいてエリュアールは特に気が優しく温厚で、彼の肖像画や写真の表情からも直ちにその穏やかさが伺えよう。
 争いを好まぬ友誼的なエリュアールに自殺願望とはなぜにと思われるやもしれぬが、融和性や調和への希求が嵩じれば原初の一元性への回帰願望を抑えきれず、ときに反体制的なまでに、そのかたくななモラリスト的傾向ゆえ悪政や強権にあらがうアナキズムへとおちいりかねない。デスノスが指摘する自殺願望、死の欲動とはシュルレアリストらが思想的基盤とした精神分析学者ジークムント・フロイト(Sigmund Freud)によって定式化されている通り、涅槃原則のうちにある。すなわち全ての有機的生命に共通する保守的及び退行的傾向とは、外的強制のもと放棄せざるを得ない原初の状態を回復しようとする衝動、無機体へ還らんとする一元論的な衝動なのである。
 従って涅槃原則が好戦的気質としてよりも、寧ろ平穏を願う融和的気質として顕在化するのは至極当然であろう。ひるがえって権力的かつ体制的で常に敵を欲する好戦的気質が二元論的であるのも早々に合点がゆく。ただし、好戦的気質であれ融和的気質であれ、サディズムであれマゾヒズムであれ、正邪曲直に是非善悪、誰しもに相反する側面が共存し、そこに質的差異はなく量的差異があるのみ。ここにフロイトが二元論から終始免れ得なかった所以があろう。
 

 1927年2月刊行の『クラルテ』誌に掲載されたエリュアールによる評論 「革命的知性-サド侯爵」で《この絶対的自由の使途は我々が本能に従い、あるがままの自己を見つめ、現実的必然性にのみ身を委ねる覚悟でもって、我々が抱くべき思想を示す》と述べており、エリュアールらしい切り口のサド論に仕上がっている。
 この評論では18世紀フランスの小説家マルキ・ド・サド(Marquis de Sade)の長篇書簡体小説『アリーヌとヴァルクール又は哲学小説(Aline et Valcour ou le roman philosophique)』第2部「サンヴェルの冒険譚」で語られている理想主義国家の法律や倫理、革命について言及している。サドの著書のなかでも残酷な猥褻描写が極めて少なく思想家としての側面が際立つ旅行記風の哲学談義であり、小説の表題下部に《フランス革命前年、バスティーユ牢獄にて記す》と掲げるサドの傑作である。
 折角なのでデスノス著『エロチシズム(De L’Erotisme)』第5章「マルキ・ド・サドの啓示」からも少し引用するが、都合よく澁澤龍彦によるその翻訳自筆原稿が私の手元にあるので、氏のペン字による健筆な訳文から拝借する《モラリストとしてのサドは、その他のいかなるモラリストよりもモラリストである。彼の創造する主人公はすべて、外側の生命と内側の生命とを調和させる執念に取り憑かれている(中略)道徳律と精神の自由との美しい手本を好むひとたちによって、サドは永久に愛されつづけるだろう。サドの生き方とその作品とは、われわれが身をもって実践することを決意しなければならない、あの貴重な道徳原理を明らかにする》。
 

澁澤龍彦の翻訳原稿 デスノス著 『De L’Erotisme』
訳者蔵

 

 エリュアールはダダイストらのなかで誰よりも温順で祖国の平和を願い、詩人ロートレアモン(Lautréamont)の詞である《詩はひとりによってではなく、万人によって書かれなければならない》を信条とし、かつ実践し得た稀有な詩人である。のちに反戦を掲げるひとりの抵抗詩人が人民と一体化してゆく、そんな彼の融和的気質にみる涅槃原則、そのモニズムゆえ死の深淵に沈吟したのではあるまいか。
 

以上、詩画集『不死者の不幸』の「訳者解題」より抜粋
 
 

2020.11.28 Ryo Iketani

 
 

- ヌーシュ・エリュアールの忌日に -

 
 
 
 
 
 

カテゴリー: エリュアール芸術論

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