音楽小論 『 雄鶏とアルルカン 』本編より抜粋
 
著: ジャン・コクトー
訳: 池谷竜

 
 

音楽では線が旋律を意味し、素描への回帰とは即ち旋律への回帰を意味する -p34-

即興演奏家とは逆にサティは完成した作品から音符をひとつひとつ丁寧に解放する -p35-

雲とか波とか水族館とか水の精霊とか夜の香りなどもう結構である。私たちが望むのは地に足がついた音楽、日常的な音楽である -p36-

印象主義の音楽家らは『パラード』のオーケストラにはソースが添えられていないので貧弱だと思ったようである -p43-

伝統は時代とともに変装する。観客はその眼つきを知らないので仮面の下を覗いたとしても伝統を見破ることはない -p45-

芸術では継続性が良質な卵の中身を育むが、殻への表面的な装飾は容易である -p47-

観客は危険を伴う深層より表層を好み、また理解を超える芸術性よりも装飾性を好む -p47-

観客は今日を否定する武器としてのみ昨日を肯定する -p47-

観客は想像の余地が残された未完の作品に歓喜し、非の打ち所のない完成された作品を拒絶する -p48-

ある知識人らが様式の欠如を指して《様式化》と称したのである -p48-

知の極限とは人類が狂気と呼ぶものである -p49-

パリでは皆が俳優になりたがり、観客では満足しない風潮がある。おかげで舞台上は満員だが、客席には誰もいない -p49-

肌で聴くのは臆病な牝鹿の聴きかたである。私は耳で聴くことを好む -p51-

鳥は葡萄をふたつに分類する。食べられる美味しい房と、そうでない房と -p52-

芸術から芸術を創ってはならない -p52-

長かった祝祭の終焉に印象主義が煌びやかな花火を打ち上げたばかりである。さて次の祝祭のために爆竹を詰め込むのは私たちの役目である -p54-

印象主義とはワーグナーの残響であり、嵐のあとの静けさである -p54-

印象主義は置き換える、太陽を照明に。音響をリズムに -p54-

ドビュッシーはフランス語で演奏したがロシア製のペダルを使用した -p54-

私たちは世間から壮大な奇蹟を要求されるが、盲信者の耳もとに私の声をそっと届けることができるならば、それだけで私は幸運である -p57-

 

 
 

以上、音楽小論『雄鶏とアルルカン』より抜粋
 
 

2019.10.19 Ryo Iketani

 
 

追記

勝利を確信した芸術家は その時点で敗者である

訳者より
 

 
 
 
 
 
 

 

カテゴリー: コクトー音楽論

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