前衛的バレエ『パラード』の初演当日、観客はその解釈に困惑して反応に戸惑う苛立ちから罵倒し、そんな野次が飛び交う喧騒を鎮静化させるために舞台へ上がったのは戦傷で頭に包帯を巻いた詩人のギョーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire)であった。その彼が寄せた上演プログラム序文でサティが奏でる舞台詩(poème scénique)と定義されたことも、シュル=レアリスム(sur-réalisme)という造語が初めて公で用いられたことも非常に興味深い。

但し、この7年後の1924年に刊行されたアンドレ・ブルトン(André Breton)著『シュルレアリスム宣言』にこう記されている「アポリネールはシュルレアリスムという字面だけをまだ不完全な形で所有していた」(巖谷國士訳)と。
確かにアポリネールはシュルレアリスムを懐胎したが育てることはなかった。
 

観客が駄作だと誤審した『パラード』を上演するシャトレ座の廊下でひとりの紳士が夫人にこう嘆いた「こんなに馬鹿げた作品なら子供らを連れて来るべきだった」と。それを小耳にしたコクトーは賛辞として有難く頂戴したそうである。まさしく、《劇場で観客は子供の残酷さを取り戻すが子供の審美眼は失ったまま》なのである。

批評家についてコクトーは1919年12月のブリュッセル大学でのサティに関する講演でこう論説している「椅子という観念から出発してランプを批判するのは滑稽である。多くの批評家達は言う《成程、このランプは珍しい。が、これは良いランプじゃない。腰懸けることが出来ないから》と。ランプはランプにふさわしい多くの効能に順って批判するのが聡明である」(昭和6年創刊號 『青い馬』掲載「エリック・サティ〈譚及補註〉」より・坂口安吾訳)と。
 

『パラード』以降のバレエ・リュスでのコクトー脚本には1924年6月上演のオペレッタ・バレエ『青列車』があり、ここでも舞台緞帳を描いたのはピカソである。音楽はダリウス・ミヨー(Darius Milhaud)で振付はヴァーツラフ・ニジンスキー(Vaslav Fomich Nijinsky)の妹であるブロニスラヴァ(Bronisława)が担当し、スポーティな衣装を制作して注目を浚ったのがココ・シャネル(Coco Chanel)であった。この前年に愛弟子のレイモン・ラディゲ(Raymond Radiguet)を亡くして悲嘆に暮れるコクトーを窮地から救ったのはシャネルである。

彼女とはバレエのほか戯曲や映画など幾つものコラボレーションがあり、そんなコクトーの多岐に渡る共同制作者としての側面を浅田彰氏はこう論じている「コクトーはディアギレフのように他人の才能を残酷に使い捨てるどころか、むしろまわりの人たちを自分よりも大きな才能として迎え入れ(中略)他者たちと結びついて多様な結ぼれを作りながら、最後には一切の無駄を削ぎ落とした限りなく細い軌跡を描く」(『現代詩手帖』掲載「コクトー、線のエチカ」より)と。
 

晩年のコクトーとシャネル
 

コクトーにとって救済者であり、姉的存在であったシャネルの言葉にこうある
 

シンプルさこそ美の鍵である
 
壁を扉だと信じて叩き続けるのは愚かである
 
 
 

 

 以上、音楽小論『雄鶏とアルルカン』の「訳者解題」より抜粋
 

 

2019.10.16 Ryo Iketani

 
 
 
 
 
 
 

 


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