井口蕉花逝去から5年後の昭和4年6月、東文堂書店より遺稿詩集として『井口蕉花詩集』が100部上梓。高木斐瑳雄を編集責任者とし、他に春山行夫と川合高照、金子光晴と佐藤一英が編集、装幀を松下春雄が務めた。しかしながら、この遺稿詩集の装幀や跋、編集含め、お世辞にも良いとは言えない。まず松下による装画が象徴派の詩に不相応で蕉花の詩情とは程遠い。更に春山による跋「エスキイス-井口蕉花の詩について」も詩論としては愉快だが、蕉花論としてはまずい。その跋はフランスの詩人アンドレ・ブルトンの春山訳「現實の貧困に就いての序説」で始まり、ジャン・コクトー風の機智に富む警句で終始軽快に論じるも、春山にコクトーのごとき巧みな修辞法や直感力もなく、そもそも蕉花論にブルトンもコクトーもそぐわない。事務的に処理されたずさんな編集が尚もいた堪れぬ。
 井口蕉花の遺稿詩集は2部構成、第1部〔白い蜘蛛〕に詩誌『靑騎士』創刊号から第7号までの掲載詩、第8号以降を第2部〔墜ちたる天人〕とするも、副題に《墮ちたる天人の中より》と掲げる詩を〔白い蜘蛛〕に収めたり、短詩「白い蜘蛛」を〔墜ちたる天人〕に収録するなど、第9号掲載「墜ちたる天人に就いて」における蕉花の構想をことごとく覆す。その蕉花による趣旨とはこうである《最近のスーフイズムの快樂哲學を研究した詩と精神のものを第一詩集として世に出したい。それを名稱けて「墜ちたる天人」としたい。その後第二詩集を舊作の感覺的、恐怖感念、幾分センチメンタルな作品を蒐めて出したい。それを「白い蜘蛛」と名稱けて出したい》と。最近の詩とは《情熱、耽美、快樂、初秘黙禱のもの》で、過去を《迷想的に落ちたもの、感覺一元のもの、恐怖發作のもの》と示す。
 本全集はこの趣意に添って適宜分類、順序は象徴詩に口語かつ敬体が馴染まぬとの編者の独断により、常体の詩を能う限り各部前半に配す。又、上作のものは《墜ちたる天人》に収めた。気鋭な詩人の処女詩集とはそういうものであろう。
 

靑騎士叢書 第1篇
巻末広告より

 
 

 井口蕉花遺稿詩集の跋で春山は《彼はシユウル・レアリストであるか。彼の希望は時に藝術的な病氣にある(中略)彼は現實を回避するか》と問い、《〔Démon litterature〕ou la prodigieuse fecondité(フイリツプ・スポオ)ロオトレアモンの詩がさうであるやうに彼の詩もその部類に屬する。彼は天使をあまり夢見ない。彼を偶像視すること、それは彼を一層醜惡にする》と論を結ぶが、鳩のごとく首を傾げてしまう。又、昭和26年10月刊行『日本現代詩体系』第9巻には蕉花の詩「花梗を求める白宵」「時」が2篇収録、その解説で三好達治は《超現實主義の立場をとつて終始變らなかつた詩人に、西脇順三郞、春山行夫、上田敏雄、井口蕉花等があつた》と述べる。春山しかり三好しかり、彼らはなぜか蕉花をモダニズム詩人、シュルレアリストに担ぎ上げたいらしい。勿論、蕉花の超現実主義的気質を否定はせぬが、彼は適度な抒情性で独自の神秘体系詩を口語体で詠う象徴派詩人、時折、物柔らかな敬体を用いはするも極度の神経症的な耽美主義者であろう。『靑騎士』にも寄稿した我が国におけるシュルレアリスム詩の先駆者である棚夏針手とも違うし、むしろ蕉花の方が詩として洗練されていよう。
 
 『靑騎士』蕉花追悼号で高木斐瑳雄に《日本象徴詩の王者よ》と言わしめた早逝の詩人井口蕉花、その追悼号を見渡せど彼の詩を正当に評し得るのは哀しいかな、岡山東だけではあるまいか。同誌掲載の岡山による追悼文「井口君のことども」から少し引いて本解題の結びに代えさせて頂く《井口君は日本に於いて最初の頽癈的象徴主義者である。今までの日本詩人中、修辭的な意味でのシンボリストは澤山ある。而しイズムとしてシンボリズムを奉じたものは井口君を除き何人あるだらう(中略)げに井口君の詩はアブノーマルな花である。その葩は韓愈が道士に見せられた宿命の造花より、もつと奇怪纎美に輝いてゐるのである。そうしてその花の蜜の泉のなかに「墜ちたる天人」が死んでゐる。その「天人」の靈魂こそ井口君の詩のエスプリでなくてなんであらう》。
 

以上、『井口蕉花全集』の「編者解題」より抜粋
 
 

2021.11.10 Ryo Iketani

- 本日、井口三郎の生誕日に -






カテゴリー: 井口蕉花詩論