知れざる神の所有者と其の周圍

散文:棚夏 針手
 

 詩を生む心は常に水色の首府である。
 其れは雌蕊の精力を有し、そは香氣し、そは現はるゝ人格である。花粉は風、昆蟲、それら迫るべき力に來つてより「童心の忠實なる亨樂」へ何物かを下命する。
 詩祖の認識はその非意識的の持續さるゝ僅かな「夢」に偉大なる會話をとげ、而して彼女の肉體となる。
 詩祖は王者であり、高踏であり、神である。
 生は生と信じ「生は地上を踏みしめる」を知らぬ。樹上に觸れてそこに荷物を感ずるであらうか、其れは質すに余りに愚かしくあるのみならず、否より低級なる感化をして答へるのみであらう。彼等は傳統に甘じ、酩酊し、善惡の觀念を最早、逸し呵々大笑するの悲劇を泪なく演じ斯くして死の日迄滿足してゐる。一朝傳統より醒めて傳統を見給へ、そこには坦々たる平野あり、山ある風手に春を得らるゝ、そして、そこに實つた五穀こそ始めて人間本性の觀念である。概述の詩的概念である。
 日光は無意に垂れず、月光は無心に舗かぬ。魚介、花詩祖が認識する時、それ等對照の光は凡て生物の焰に化し、詩人の幽魂を知る。それでこそ一つの詩的概念であり得べきである。傳統が現實を斯くも大まかに扱ふ故、强いて「異端」なる熟語を寄生させた。これは社會の罪惡である。爾來詩的概念なる語は吾人の耳目に如何なる不可解さを抱かしむるや、人間をして荀も文明人としての吾人、これ等の侮蔑は忍ぶべくもなかろう。
 顧れば傳統に生れて傳統に死ぬ可き「通俗」は哀れにもそれ等に女々しく尚も柔順で在るばかりだ。おお、憂ふべし、彼等は怕らく地上を踏む力を感じては居るまい。卉、有ゆるものは此處に根ざさず、人心の情熱は若きが故に生ず可きものでは無い、人間である故に生るゝのである。實に此の世界こそ久遠情熱圏である。即ち神々を知るそれである。我等は母胎より齢を譲り渡されあるのみにて、永久の靑春に依りて詩相に離れ母胎を祝福するを希ふまいか?我等は心、恒に嬉しく綠蔭を望むこと切りである。これ故我等ば倦む事なく神々に仕え神々の眞を知りたく念ずる。凡な通俗よ、それ等知られざる神の所有者よ、吾人は開かれざる花、唄はざる詩人であるのだ。「異端」なる語を誤らざる可し、さならずば吾人自らその神々を誅するに等し、唄はざる詩人は詩的概念の匂を知れ、それはよく吾人の 先を慰撫し、眞の生を悟り得らるゝ一助とも必ずなるのであらう。
 靑史は未だ詩壇に寡言である。されど人生は日に月に深奥へと根を下さん。宜しく活眼をみひらきそこに雄辨なる水色の首府への漫歩を試みられよ。
 低級なるセンチメンタリズムは痩せたる女王となり、高踏の神々のみ、尖端空に向く城中に王者たらん。現在の誤り多き詩壇の一角に立ちて、自分は咆吼する犬に似て「異端」である如く一蔑されて居るものゝ、敢てそれへの闘論に非ず、赤心、一吐、以て有ゆる生へのその最も良き宗教となつて謂ふのみ、眞はそれ以外に何物も示さぬ。
 吾人、陶治は常に痛罵である。


 

以上、『棚夏針手全集 下巻』より
 
 

2021.9.1 Ryo Iketani






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