小説家としての山田一彦(朝山洋太郎)はいわゆるシュルレアリスムの作家ではない。プロレタリアの系譜を汲む雑誌『麥』同人ゆえ、左傾化していった写実主義だとあわや捉えかねないが、それは小説の表構に過ぎず、木村森平一家の現実逃避やその情緒の一喜一憂を表す感覚的な比喩、庶民派の森平に対置させる耽美派な魚地剛太郎、それは大正から昭和初期に至る文芸主潮をなぞるべく自然主義から反自然主義への定石を踏む、曲芸師のごとき軽快さで。要するに小説「蝕まれても實るべし」は新感覚派の文学、少なくとも第二章まではそうである。大正後期に興る川端康成や久野豊彦等の新感覚派、当時の未来派や立体派、表現派やダダイスム等の前衛的手法で比喩や擬人法、擬声語や擬態語を用い、音楽や絵画や映画の如き視覚や聴覚等の感覚的な表現を文体に取り入れた文学思潮である。「蝕まれても實るべし」発表時は新感覚派も端境期、その頃の阿部知二著『冬の宿』や横光利一著『紋章』にみられる良質な通俗さの片鱗を山田の小説にも感ずるとまでは言い過ぎか。すくなくも山田一彦の初期シュルレアリスム詩からは想像だにしない、やや強張ってはいるものの新感覚派文学へのアクロバットな綱渡りを持ち前の鋭敏さで成し遂げている。
詩と同様、山田は小説においても音楽的モチーフを随所にちりばめている。各章や節の副題がすべて雅楽用語になっており、それが背景音楽さながら登場人物らの錯綜する情感を弦のごとく振動させ、張り詰めた悲哀のオーケストラを静閑に奏でている。まず序にあたる第一節の副題《亂聲》とは雅楽や、特に舞楽における笛や太鼓による前奏曲、導入曲の一種である。第一章の副題《壹越調》は雅楽六調子の一つで壱越の音、すなわち音階でいうニ音(D)を主音とした旋法を意味し、張り上げた声という意もある。第二節の副題《只拍子》も雅楽理論でリズムを表わす用語の一種で付加リズム、あるいは混合拍子の意、唯拍子とも忠拍子とも書く。第二章の副題 《黃鐘調》も雅楽六調子の一つで黄鐘の音、音階でいうイ音(A)を主音、すなわち宮音とする旋法である。
副題の他にも第二章第八節で魚地剛太郎が《新聞の樣に黑い》と皮肉る譜面「ガスパルの夜(夜のガスパール)」はフランスの詩人ルイ・ベルトランの詩集を題材にした技巧派の作曲家兼ピアニストのモーリス・ラヴェルによる難曲と名高いピアノ組曲であるし、ロシアの作曲家イーゴリ・ ストラヴィンスキーによる革新的バレエ音楽の傑作『春の祭典』を《戰争を見た原始人の叫びのかけらを寄せあつめて調子はづれのエネルギーを雪だるまのやうに》云々と魚地に長々と語らせている。フランスの作曲家クロード・ドビュッシーやロシアの作曲家アレクサンドル・クリャービンの名も上げているし、歌劇場で魚地が英語で野次を飛ばしたロシアの指揮者による古典交響曲が誰の曲かも気になるところだが、音楽談義はこの辺にしておく。
同人雑誌『麥』通巻第10号
小説「蝕まれても實るべし」第三章以降が原稿不明であるにせよ、あるいは未執筆であったにせよ、かつて北園克衛に《彼れは一個の透明な種子である》と言わしめた詩人、山田一彦の種は見えねど確かに実り、黄金の麦穂を眠れる獅子の鬣のごとくなびかせる。蝕まれた我が胸の麦畑一面に。
以上、『山田一彦』の「編者解題」より抜粋
2021.8.14 Ryo Iketani