明治41年5月31日、山田一彦は富山県東礪波郡福野町(現在の南砺市)に出生、父研作。祖父七彦は三代目福野町長であり、麥里の号で俳諧の宗匠として知られる文人である。山田一彦は旧制砺波中学校の4年生の時に池田源尚(のちに小説家)と知り合う。後年、池田は中学時代をこう述懐する《五年制の旧制中学で四年生を二度する羽目になった。この二度目のクラスメートに文学少年の山田一彦がいて大いに啓発された(中略)彼は秀才であったが、ほとんど登校せず不良少年を装っていた。私(池田)と会うとダダイズムやニヒリズムという最新流行の文学思潮を、たばこを吹かしながら吹きかけた。彼は四年修了で一足先に法政大学に、私は中学を卒業すると日本大学にそれぞれ
入学した》と。大正13年の富山で中学4年の山田(15歳)がダダを耽読していたのには驚きである。例えば、同じ富山出身の瀧口修造(山田より5歳年長)でさえダダに触れたのは大正15年、渡英から帰国した西脇順三郎の邸であり、瀧口と旧制富山中学校の同級生である詩人の三浦幸之助(詩誌『衣裳の太陽』にも寄稿)とて、そんな話はない。
上京後について池田はこう続ける《東京の大学生活で私(池田)は決定的に文学への道を歩むことになる。のちに芥川賞作家となった倉光俊夫も法政にいて、ある日、山田によって紹介された。初めての同人雑誌『木車』は倉光が山田らと出し》と。更に《私を文学に目覚めさせた砺波中学同級生の山田一彦はシュルレアリスムの詩の方へ走り、西脇順三郎や北園克衛らと付き合っていた》とも記している。その北園克衛は昭和52年に復刻された詩誌『薔薇魔術學説』解説「薔薇魔術学説の回想」にて《ある日、冨士原清一と山田一彦がたずねてきた。かれらはこれまで『列』という小さな同人雑誌を発行していたのであるが、その雑誌を改題してもっと新しい内容をもった雑誌にするための相談に訪ねてきた》と懐古するも実際は山田ではなく小野敏だったらしく、北園の記憶違いのようである。小野敏が山田の別筆名の可能性もなく、『薔薇魔術學説』創刊号裏表紙の各同人住所録に山田は東京市本鄕區逢來町、小野は同市外西大久保との記載あり。ちなみに冨士原は同市本鄕區森川町。当時、山田と冨士原は法政大学予科在籍、同齢で無二の親友であったらしく、ゆえに北園は錯誤したのではあるまいか。冨士原の出身地が大阪府西成群豊崎村(現在の大阪市北区)で淀川のすぐそばなので、小説「蝕まれても實るべし」の魚地剛太郎のモデルは冨士原で間違いなかろう。冨士原が富裕な地主の息子で、しかも中学の頃にヴァイオリンとの出会いから美に傾倒する辺りなど魚地そのものである。
詩誌『薔薇魔術學説』創刊号
その小説第二章で詩が引用されている詩人の瀧口修造は、昭和14年10月発行の雑誌『蠟人形』10月号収録の「詩人詩生活物語草紙(7)・ある時代」にこう綴る《先日ラヂオで話をした時のこと、山田一彦の手紙が、七八年もの音信不通の後、まるで虛空からの便りのやうにやつて來た。彼はいま金澤の某軍需工場で活躍してゐるのであつた。彼は僕の意外な聲をなつかしみながら書いたのだが、僕の方ではその中に、金屬的な、彼の變らない若々しい聲をはつきり聽取したのである》と。この書簡は昭和20年5月の東京大空襲で瀧口邸と共に焼失。小説に引用された詩は昭和12年11月刊行の瀧口の詩画集『妖精の距離』収録の「風の受胎」である。後年、瀧口は昭和44年8月発行の雑誌『本の手帖』瀧口修造特集の「自筆年譜」に《冨士原とはかなり後まで交友がつづくが戦死。山田は当時異質のバイオレンスがあり注目していたが、いつからか音信不通となる》と記しており、山田への言及として貴重であるものの、山田の死は知らなかったようである。その年譜にて瀧口はこう追懐する《冨士原は飲むと神楽坂で暴れ、私はきまって介抱役となる。彼は私を守護天使と呼んだ》と。魚地剛太郎の介抱は木村森平ではなく、どうやら瀧口の役割だったらしい。
以上、『山田一彦』の「編者解題」より抜粋
2021.8.12 Ryo Iketani