1921年11月4日、ポール・エリュアール(Paul Éluard)と妻ガラ(Gala Éluard)はケルンのカイザー・ヴィルヘルム=リングにある画家のアトリエ(エルンスト夫婦はダダハウスと称す)を訪問する。マックス・エルンストは妻ルイーゼと1歳の息子ウルリッヒと暮らしており、まだ無名の画家はヴァルラフ・リヒャルツ美術館で働く妻の稼ぎと、裕福な彼女の父親からの経済援助とで生計を立てていた。
 このときエルンスト(30歳)とエリュアール(25歳)は初対面であったが即座に意気投合し、その友情は生涯続く。彼らは初対面とはいえ1917年の第一次世界大戦におけるソンム戦線ではドイツ軍砲兵とフランス軍歩兵という各々敵対する立場にあり、あわや殺し合っていたやも知れぬ数奇な接点がある。エリュアール夫婦は1週間ほど滞在し、油彩画「セレベスの象」と「オイディプス王」を購入して、エリュアールの構想中であった詩集『反復(Répétitions)』の挿画としてコラージュ画を11点選び、パリへと戻る。

 翌年の1922年4月1日にエリュアール詩画集『反復』は四十九篇の詩にエルンストのコラージュ画を添えて、エルンストの初個展会場でもあったAu Sans Pareil(出版社「オ・サン・パレイユ」)より刊行(限定350部)される。
 

Paul Éluard 『RÉPÉTITIONS』

 この詩画集をバンジャマン・ペレ(Benjamin Péret)は翌月刊行の雑誌『自由な葉』第26号の書評にて《エリュアールは鳥を捕まえて言葉に変換し、言葉を捕まえては鳥に変換する(中略)人々が雨戸を閉めたとて太陽の輝きを妨げやしない》と詩的に評す。エリュアールは仕上がった詩画集を持ってケルンまで届けるのであった、親愛なるエルンストのもとに。

 その後もパリとケルン間において、エルンストによる新たなコラージュ画と、その画に呼応するエリュアールの散文詩とが郵便を介して往来し、同年7月に彼らによる共同制作の詩画集『不死者の不幸(Les Malheurs Des Immortels)』が刊行されたのは訳者解題冒頭でも述べた。その出版を祝うためにエリュアールと妻ガラは友人ら(トリスタン・ツァラやハンス・アルプ他)と共にタレンツに集う、勿論エルンスト夫婦もいる。彼らはそこでひと夏を過ごし、8月31日、帰り際にエリュアールは自分のパスポートをエルンストに渡しておく、ダダ活動により危険な扇動者と目されてビザを発行して貰えぬエルンストが渡仏できるように。エリュアールは領事館で紛失届を申請し、再発行して貰えばよいだけである。

 明後日の9月2日、エルンストは妻子をケルンに残してパリへ訪れる。それからエリュアール夫婦と4歳の娘セシル、そしてエルンストとの奇妙な共同生活が始まり、パリ北郊のサン=ブリス=スー=フォレのショセ通りにある借家住まいから移り、少し西にいったモンモランシー谷の中心部に位置するオーボンヌのエノック通りに新たな居を構え(当時エリュアールは父が営む不動産業を手伝う)、その瀟洒な邸宅の3階を居候であり無名の画家エルンストのためにアトリエへと改築、この邸宅(エリュアール曰く、人形の家。ブルトン曰く、秘めたる陰謀)にエルンストは17点もの壁画を描く。
 彼らのこの共同生活は二年ほど続く。
 

以上、詩画集『不死者の不幸』の「訳者解題」より抜粋
 
 

2020.11.17 Ryo Iketani

 
 
 
 
 
 

カテゴリー: エリュアール芸術論

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