マックス・エルンストはドイツの画家で、詩画集『不死者の不幸』刊行前年の1921年5月3日から6月3日までパリのAu Sans Pareil(出版社「オ・サン・パレイユ」)で開催された彼の初個展『ダダ・マックス・エルンスト展 - 海底貯蔵ウイスキー・泥濁色の乳製品と五つの解剖・スポーツ万歳』によって一部の好事家やダダイストらの間で知られていた程度で、当時はまだ無名の画家である。
 この展覧会の提案者はチューリッヒ・ダダの詩人トリスタン・ツァラ(Tristan Tzara)であったが、企画及び実施のほとんどはアンドレ・ブルトンによるものであり、且つ《我々は目撃するだろう、無限の可能性をこのマックス・エルンストに》という辞で締め括られた展覧会序文も彼が綴る。この展覧会前日に会場前で撮影されたフィリップ・スーポーが脚立の上で自転車を抱え、その下で逆さまになったジャック・リゴー(Jacques Rigaut)、その横にブルトンがおり、ショーウィンドウ前にはバンジャマン・ペレ(Benjamin Péret)らが並んでいる写真は印象的である。
 

EXPOSITION DADA MAX ERNST
 
 

 当事者のエルンストはというと前年のドイツでのダダ展における一件で官憲にパスポートを没収されており、作家不在の展覧会ではあったがその斬新なコラージュ画(この時点ではコラージュとは銘打たれておらず、後年ルイ・アラゴン(Louis Aragon)により位置付けられる)と展覧会前夜に行われた過激なレセプションによって、企画者ブルトンの想定通りにマスコミらを憤慨させ、パリの新聞各社による賛否を巡るその記事は一週間以上にも及び、スキャンダルによる宣伝効果を充分に得るのであった。展覧会はパリの前衛芸術家ら(画家フランシス・ピカビアだけはエルンストの才能に嫉妬して非協力的であったが)に多大なる影響を与えたが、展示された計56点もの作品は一枚も売れなかった。いみじくもこの展覧会序文でブルトンはこう告げている《我々に断言できよう か、同一原理から逸脱する覚悟などいらぬ》と。

 ポール・エリュアールはフランスの詩人で、エルンスト展の会期中は妻のガラ(Gala Éluard)と南仏へ療養旅行中のため、コラージュの創始者によるエルンストの作品を見ておらず、展覧会前夜の騒動にも不参加であった。エリュアールは同年(1921年)9月末にオーストリアのチロル地方にあるタレンツへ妻を伴いヴァカンスに行き、現地で新婚旅行中のアンドレ・ブルトンとその妻シモーヌ(のちにレーモン・クノーの妻となるジャニーヌ・カーンの姉)と合流するものの、ブルトン夫婦は早々にウィーンへと発つ、おそらく精神科医であり精神分析学者のジークムント・フロイト(Sigmund Freud)をいち早く訪ねたかったのではあるまいか。

 エリュアールとガラはタレンツでひと月ほど過ごし、帰途をドイツ経由にしてエルンスト宅を訪ねる。
 

後篇に続く
 
 

2020.11.16 Ryo Iketani