大和の秋深まる10月吉日、多賀新氏(銅版・鉛筆画)と建石修志氏(鉛筆・油彩画)、拙訳『雄鶏とアルルカン』の表紙画を描いた日乃ケンジュ氏、私の4人で生駒山の中腹にある宝山寺(生駒聖天)を訪れた。

 前日までの雨天も晴渡り、山野は紅葉の支度で忙しそうに凛とした秋風にその身を揺らす。朝、多賀氏を梅田のホテルまで迎えにあがると開口一番、昨夜は熱でうなされたという。御年73歳ともいうのに前日も前々日も夜遅くまで一緒に飲んでいたのだから、熱が出ても何ら不思議ではあるまい。来月、エディンバラの大学に講師として招待されているらしく、一人で行かれるというそのバイタリティも驚愕である。言わずもがな、講義内容はエロティックな絵画論を展開するとのことである。
 

 宝山寺は延宝6年(1678年)に湛海律師により開山された真言律宗大本山の寺院であり、本尊に湛海作の不動明王像、そして多賀氏が仰ぐ空海(弘法太師)が修行したとされる般若窟とよばれる岩屋を背に、御本堂や愛染明王坐像が安置された多宝塔などがある。多賀氏曰く、聖天堂拝殿に見られる茅葺屋根の造形は稀であるとのこと。四国遍路で八十八箇所を巡られた多賀氏が言うのだから間違いなかろう。
 その聖天堂内陣の円檀中央に鎮守神として聖天の厨子、その背後の造り付けの厨子には荒神と十一面観音と毘沙門天が祀られている。

 聖天とは仏教でいう《大聖歓喜天》または《歓喜自在天》の略称であり、元来『ガネーシャ(集団の王の意)』と呼ばれる象の頭を持つインドのヒンドゥー教の神である。宝山寺に奉納されている鼻を伸ばしたその聖天像は《抱擁する男女》とのことであるが戒律的判断のもと、その過激さゆえに非公開である。
 ガネーシャ神の話をしたとき、多賀新氏は自称《ガネーシャ新(しん)》であると微笑んでおられた。と同時にガネーシャ的人物画を作風としていた関西の画家、梅木英治氏とその妻の早世を悼んでおられた多賀氏の友を尊ぶ余聞が印象的であった。現在開催中の大阪梅田にあるギャラリーベルンアートでの多賀氏の新作展ではガネーシャが仏の足許に横たわる秀逸な鉛筆画がある。
 

ギャラリーベルンアートで開催中の多賀新氏の新作展
2019.10.26迄

 
 

 多賀氏は宝山寺にある鳥居(寺院だがある)に掲げられた《歓喜天》という扁額を眺めながら、その如何わしい詞にエロティシズムを嗅ぎ取ったらしく、その嗅覚は的確でこの宝山寺周辺の宿は最後の桃源郷ともいえる旅館形式の遊郭であり、その歴史は長く、戦時中は兵舎利用のために一時的な休業を強いられたものの、現在進行形で風俗営業しているので詳細は語らない。花街として繁栄していたころの跡形はないが大阪よりも早くにダンスホールが造られたほどであるから、生駒で産まれ育った私も驚きである。

 宝山寺山麓で私の祖母は生前、助産院を経営していたが、いま思えば遊女御用達だったのであろう。宝山寺は商売繁盛祈願で広く知られているが、水子供養も盛んである。私は幼いころ産婆の祖母が語ってくれた水による堕胎の話などを記憶しているし、その助産院の狭い院内を走り回っていた日々をいまも懐かしく思う。そんな産婆として高名な祖母が分娩で取り上げたすぐの嬰児であった私に対して災厄を持って出生した児であると判断したそうで、母親に私を川へ捨てさせて叔母が拾い上げるという風変わりな儀式を行ったという実話がある。生駒市北部の生家から最寄りの川に捨てられたのであるが、その川とは星が森を背景に龍が渕(池の意)を廻らす広域の地を鎮座する、湧き出でて枯れることない清水との謂れがある住吉神社の天野川源流であるから、伝承や古歌などで咏い尽くされてきたなかなかの由緒正しき川に捨てられたものである。それにしても何百もの出産に貢献した祖母でも後にも先にも川に流したのはそれきりなので、私としては複雑な心境だが厄が払われたのであればそれで良い。
 

出雲大社に縁のある横綱・日馬富士の化粧まわしをデザインした多賀新氏による同絵柄の御朱印帳。出雲大社相模分祀にて販売中
 
 
 

 さて宝山寺の御朱印所で多賀氏は自身がデザインした御朱印帳に記帳してもらい、鳥居を抜けてすぐの遊郭に囲まれた蕎麦食処『六根亭』から大和平野を見下ろしながら皆で昼食をすませて、信貴山の朝護孫子寺へと向かう。
 

建石修志と信貴山篇に続く
 
 

2019.10.25 Ryo Iketani

 
 
 
 
 
 

 

カテゴリー: 多賀新絵画論随筆