明日も朝になれば寝床から身を起こし、夜には同じ姿勢へと倒れ伏せる。亡霊のように再び起き上がり、また疲労のもとにへたり込むといった起伏運動を連日繰り返す。日々における起伏運動やすべての規則的な動き、継続的な動作のなかにはリズムが存在し、それは自然の営みや自然現象、肉体の細胞単位に至るまで確認することができる。

 今日も太陽は東の山から起き上がり、西の海原へと身を沈めてゆく。その日々のパルスが季節を刻み、季節の懐に抱かれて植物は太陽めがけて身を起こし、やがては倒れ伏せて大地と交接して土に還るのであろう(特撮の植物成長フィルム早送り映像さながらに)。

 リズムとは音響と運動との関係のうちにある精神的引力の働きかけによって生じるのであり、その事象や形態をリズム化するものは、生命そのものであるといえよう。ならばリズムのうちで振動することは生命のなかで振動することを意味し、精神をして生命の脈動を狭めしめている制御から一時的に解放されることを、自己の肉体に律された禁止を打ち破ろうとする違反、そのエロティックともいえる行為を意味するまでに至るであろう。

 ここでいうエロティックとはピストン運動や伸縮膨張作用を指すのではなく、例えば息を吐き続けることはできず、吐くのを止めて吸う行為に移る直前の一瞬の停止、極端に言えば小さな死さえ想起させる休止、休符、そのあとに訪れる吸うという解放をしてエロティックと言わしめているのである。
 

interlude N0.5
 
 

 このようにリズムは《行為》と《休止》から構成されていると見て差し支えなかろう。水道の蛇口から出っ放しの水の音よりは、コックの締めが緩くポタポタと滴る水の音のほうにリズムを感じるのは至極当然である。

 誰しもが息を吐き続けることができず、自然は同じ風景を描き続けることができないのであるから、音響と運動の密接な関係は意識的な、目的的な行為ではなく、無意識における生命の行為とでもいえるのではなかろうか。

 そんな幾多の生命が奏でる交響曲は今日も鼓膜を震わせる。
 

2019.10.4 Ryo Iketani

 
 

- グレン・グールドの忌日に -

 
 
 
 
 
 

 

カテゴリー: 音楽論